気づけばあの音楽だった。懐かしいというよりは切ない思い出がよぎる。酒を飲みすぎたみたいだ、今日も。妙にセンチメンタルな自分に我ながら驚いた。
俺は仕事の鬼になると決めたはずだった。いや確かに決めたんだ、あの日に。
「鬼になっちゃいなさいよ」
「じゃあ、君は鬼ってみたことあんの?」茶化した俺の言葉を無視して彼女は言った。
「あなたをみた人すべてがあなたを鬼だとおもえばいいわけ」
「やるの、やんないの?」
彼女がピアノの前に立つとまさしく鬼そのものだった。喜怒哀楽が入り乱れたあの表情が逆に妖しげな艶を醸し出していた。バーでのライブの後には飲みに行くのが常だった。だが初めて飲みに行ったとき俺は驚いた。
「絶対音感なんて言うけど、耳障りな音が溢れすぎてるわ、この世界は」
「世界なんて大げさだなぁ」
俺の言葉を無視して彼女は続ける。飲んだらこうなのか。
「いい、聴覚っていうのは視覚なんかより数倍も脳の原始的部位に直結してるわけ、つまり感覚とか記憶もより強烈なの」舌も絡むことがない。
「なにより触覚もね」俺の顎に手を伸ばす。
「この感触なんともいえない、このザラザラ感」
「不揃いの髭ってなんでこんなに気持ちいいんだろ」邪心が顔を出す。
「どうせなら唇の感触も試してみたら」
言うが早いか彼女の瞳いっぱいに俺の顔が映った。「悪くないかも」
もう俺は止まれそうもない。背中で銃弾を受けるなんてまっぴらだ。
彼女のことばに、彼女に俺を預けた。以来俺は鬼になった。会社の最大公約数的存在だった俺から脱するには。俺は人の顔色を無視した。俺の幼稚な正義感にふれるようならとことんだ。
だが不味い、それにしても。あれほど旨かったビールが。俺の舌が変わったのか、彼女がもう傍にはいないからか。不味さに比例して量だけは増えていく。もしかしたら次の一杯はうまいんじゃないかという強迫に駆られて。彼女のいない生活なんて気の抜けたビールみたいなもんだ、ホントのところ。
昔の人は言った。「最愛の女性と結ばれること、それは一国の宰相になるに等しい」
こんなときに彼女が狂おしく弾いたあの曲が流れるとは。あぁ、走馬灯なんて目じゃない、色鮮やかに彼女との思い出がよみがえる。ましてや彼女の息づかいさえも。聴覚からの刺激を伴った記憶は強烈だ、幸か不幸か。彼女とのものならなおさらに。
あの曲が俺を露わにしてくれた、今の俺を。感傷に浸っている暇はない。俺は店を出た。口をつけたビールはそのままに。