『グラッツェ』 彼女は三度繰り返した。
あの時課長から海外出張を命じられたのはなぜだろう。そうか、大学で専攻してて、日常会話なら可能なんてそれらしいことを言ってたからか。話せるどころか今回人生初めてだ、イタリアに足を踏み入れたのは。決して人あたりのいい方ではない俺がつつがなくやれるのか。
「ビールでも飲むか」俺はバルに立ち寄った。まぁ、どうにかなるだろ。
しかしこのビールはぬるくて、不味い。
そんな時だ。「あなた、ジャポネーゼ?ここイタリアでビール飲むなんてわかってないな~」みたいなことを彼女は言った。周りを見ると俺だけビールだった。
「俺はビールが好きなんだ」
「せっかくなんだからワインを飲みなさいよ。」
「この国のワインはおいしいわ。夢やロマンがつまった奇跡よ」まさかこんなたいそうな言葉を並べるなんて、たいした国民性だ。
その後、空けたグラスはワインだけだった。なにを話したのかもよくは憶えてない。ただ、拙い英語を介して彼女と語り合った。イタリア訛りの英語は時に、驚くほどの艶を帯びていた。聞こえづらいときには、もう一度聞き返す。すると彼女は耳元でゆっくりと丁寧に喋ってくれた。だから聞こえないふりをしたのは一度ではなかった。
「あなた、おもしろいし、素敵だわ。加えてセクシーだし」
あぁ、嘘なら嘘でいい。近しい人よりも、突然出会った人に言われてこんなにうれしくなるとは。
自宅への誘いには二つ返事だった。怪しさよりも妖しさに打ちのめされたからだ。
この国のひとは、人を褒めることに関してもパーフェクトだった。そしてキスも例外ではなかった。
去り際彼女は言った「グラッツェ」 四度目のときには俺は慌ただしい人混みの中にまぎれていた。
彼女にはそのあと一度も会えなかった。自宅に行くことは考えもしなかった。イタリアにも野暮ってコトバぐらいあるだろうから。
昔の人は言った。「美しいものにはトゲがある。だが、トゲがなくて美しいものなんてこの世にはない」
俺は再びここに来た。地中海の眩しさが俺の幼稚なココロを惹きつけてやまないから。
というのは10パーセントで、残りは彼女の瞳だ。
あぁ、なんて優しい色だ。地中海はその青さが際立っている。そう、この地中海の恩恵にあずかっているのは彼女だけではない、俺もその中にある。
夢やロマン、そして愛の宝庫だ。これこそ。